シン・エヴァンゲリオン劇場版 >> ありがとう、さよなら、25年間の私。

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【注意】この記事はいわゆるネタバレに言及しています。



公開初日のレイトショー、冒頭のロゴバックにマリの鼻歌が流れている間と、「終劇」から劇場の照明が点くまでの間、満席の客席からは一切の物音がせず、完全な静寂に包まれていた。


* * *


終わった……。

良かった。ストーリーがどうとか関係なく、完結してくれて良かった。そして、そのこと自体が一番のネタバレだと思った。


いや、まあ、わかるんよ。なんか癪に障って素直に納得できないという気持ちもわかる。陳腐な幸福観イメージに凝り固まった年寄りの説教なんか聞いてられるか! と反発したくなる気持ちもわかる。(誰も言ってない。)

ただしちょっと落ち着いてほしい。劇中の登場人物は別にあなた(私)ではないし、彼/彼女らの幸せがあなた(私)の幸せと同じものだなどと言ってはいないし、あなた(私)もそれと同じ幸せを手に入れるべきだなどと言ってもいない。(だいたい、「オトナになれ」という説教臭さに関して言うなら、そもそも旧作であんな暴力的に「現実に帰れ」と突き付けた手法に比べると、今作のメッセージはあまりにも優しすぎて拍子抜けである。)ただの観客である私(たち)の心情を投影されるべき人物は、そもそも劇中に存在してなどいなかったのだ。

なので、その無関係な第三者としての個人的な感想を言わせてもらうと、彼/彼女らが自分自身の意思と行動によってこういう結末にたどり着いたということが(どんな結末の形であれ)嬉しかった。


それに、もし仮に、ここで描かれている幸福観を、観客である我々が手に入れるべきものだという(「オトナになれ」的な)メッセージが込められていたのだとしても、その「幸せ」は一過性あるいは表面的な一面でしかないという可能性があることを、我々はちゃんと理解したよね? なぜならば、「Q」では言葉足らずで伝えられていなかった想いや事情があったことが今作「シン」の中でも描かれていたし、であれば、「シン」の中でも描かれなかった(幸福とは逆の)経緯や事情もあったであろうということは、いちいち説明されなくても(ちゃんと説明はされていたが)理解できるはずなので。

じゃああの第三村の描写にどんな意味があったのかというと、あれは、シンジが守ったものが描かれていたのだと解釈した。


そんなふうに理解はするけれど、いや、理解するからこそ、自分自身の意志と行動で幸せを手に入れた彼/彼女らが羨ましいのだというのが、正しい感情なのかもしれない。嫉妬。

けれどもその点については、言い訳のしようがないと自分でも思う。TVシリーズ終了から25年、旧劇から23年、序から13年半、Qからですら8年半も経っていて、時間的な猶予は(想定外の延期の期間も含めて)十分にあったわけで、それだけの時間があったのに自分自身をを何も変えられなかったのは、100%私(筆者)の責任でしかない。弁護の余地は皆無である。自分がどうするべきかは、自分自身で決めないといけなかったんだってシンジ君も言ってたもんね。


そういう意味で、最大のネタバレは、自分(筆者)自身が25年(※)の歳を取ってしまったということかもしれない。

(もし、旧劇の内容が今作だったら、それはそれで大荒れになっただろうと思うし。たぶん。)

学校であれば数年ごとに「卒業」させられるが、そんなふうに強制的に人生の区切りを経験することは、自分の人生を選択していくために必要だった(し、時間を待っているだけでよかったので楽チンだった)。

オトナになって、そういう人生の区切りを強制されることがなくなったことに甘えて、ズルズルと生きてきたけれど、本作がそんな自分からの「卒業」のきっかけになってくれたなら、私からもぜひ言わせてほしい、「ありがとう、さよなら。」


※なお、田舎育ちの筆者がTVシリーズを観たのは(テレ東系列のチャンネルがない地域だったので)リアルタイムではなかったはずなので、厳密には25年間ではない。


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♪もしも願い一つだけ

♪叶うなら

おいらも鈴原サクラに撃たれたかっt;y=ー( ゚д゚)・∵. ターン

(暗転)



(無音)



「終劇」



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