サマーウォーズ >> お盆休みには必ず帰るよ
ここでは自分の話を.
うちの曾ばあちゃんも結構な長寿を全うした人だったので,親類一同を数えるとそれなりの大家族である.子どもの頃はお盆というと,ゆっくり休むどころか掃除に手伝いにとあれこれ働かされるものだという認識だった.ただ,生きている限り寿命からは逃れられないわけで.こうして世代が進むにつれ,全員で集まる機会というのは無くなってしまう.残っている方ももう移動するだけで一苦労だし.
そもそも自分が,大学に進んで地元を離れた結果として,そういうものから疎遠になってきた訳であるが,だからといって,「(こういう人間関係などの)田舎の息苦しさから逃げ出して,身勝手にもそれを羨望している人たち」だというように思われることがあれば,それは心外である.
そうしてふと気が付くと,もう,次の世代が増えていかねばという年になっているのだな.まったく,長男坊は何処で何をしているのだ・・・・・・あ,俺だ.
「ウォーゲーム」では,「世界中と繋がった電子世界」を舞台としながらも,そこに登場するのは「子ども達」だけであった.(これはデジモン自体の世界観なので良し悪しを言うつもりはない).それ故,関係者があれだけ少なくても物語として成り立っていた.というように記憶している.
一方,舞台が「サマーウォーズ」ほどの規模になり,現実世界の文字通り誰もがその世界の登場人物となりうる環境となったときに,本作のように,高々一家族で世界を救ってしてしまえるかというと,ここに個人的な引っ掛かりを禁じ得ない.
キャラクター,設定,演出など,部分部分は大変魅力的なアニメであるだけに,この違和感が際だつ.
強いて言うと,「一体感」(の演出).テーマが「繋がり」であるにも関わらず,重要なところでみんな,結局一人で闘っている.いや,正確に言うと,一人で闘わざるを得ない世界になってしまっている.
もちろん,それぞれの役割分担とか,座敷での一体感とか,「元気玉」(オラに力を(ry)的な協力はあるのだけれど,もうちょっと踏み込んだ演出はできなかったものか.むしろ役割分担を分担させすぎたのが原因か.
力を合わせる者が「同じ」場所にいなければならない理由.そこさえ強められれば,健二の,主人公としての役割も高まり,存在感(と言うか,必要性?)も強められたのではないかと,ふと思ったのだった.
(例えば,二人が手を繋ぐ場面なんて象徴的なシーンだけど,あれを,あそこではなく,勝負の鍵にできる方法はなかったかなど.これはこれで,強調しすぎると白けてしまうかもしれないけれど.)
個人的には,社会人となった今,リアルなコミュニケーションに指向が回帰してきたちょうどそのタイミングであったという点で,本作を観るタイミングとしては最適だったと思う.
ともかくこのお盆には,夏休み取って実家に帰ります.
【追記】
社会を混乱させたいのなら一番に電気通信網を破壊すればいいのにどうしてそうしなかったの? という疑問に対しては、自明な答えが用意されている。
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【2015/x/x 追記】
上記のとおり、個人的には大好きな作品なのだが、ふと、これはとても残酷なお話なんじゃないかと、そういう見方もできるのではないかと気付かされたので、書き留める。
大家族のそれぞれが、それぞれの立場それぞれの役割で貢献するというのが本作のテーマであり、感動を覚えるものであることは同意する。中でも特に、一族をまとめる大おばあちゃんが、つてを辿り叱咤激励する様は、胸に込み上げるものも一際であろう。
でも、でもですよ、それは大おばあちゃんが望んでなった立場なんでしょうか?
逆に言うと、技術の進歩・電子社会の発展からすっかり取り残され、自分自身が手足を動かして行うことのできる貢献はもう何も残されておらず、現場でてんてこ舞いになっている現役に対して迷惑電話をかけることぐらいでしか関わりを持てなくなった、お年寄りの姿だとしたら、それはあまりに残酷ではないか。(※念のため、これはかなり意地悪に書いているので、もちろん私の本意ではありません。)
そしてそれは、私自身もいつかゆく道ではないか。だとすれば、それまでに何をしておくべきで、そのときに何をするべきか、今この時から覚悟を決める必要がある。