ゲド戦記 >> そんな言葉だけで納得なんてしてあげないよ
- 出版社/メーカー: ブエナ ビスタ ホーム エンターテイメント
- 発売日: 2007/07/04
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夏だ! カレーだ! ジブリだ!
評判ほどには、酷くないかもしれない気もしないでもない?
ひときわ良かったのは、オープニングの観客を物語の世界に引き込む導入や、サブキャラを含む登場人物の豊かな表情(それに比べると主人公周辺の描き方はどうしてこうなった…)や、背景美術のああいう夜空(明るめの星空の下で雲が白く浮かんでるような)は好きだなーなど、そりゃあ、アニメーション技術としてジブリの腕に信用が無いわけではない。
じゃあどこが残念だったのかと訊かれれば、やっぱり(予告CMを観た人はきっとそう思うと思う)、キャラクターが作品の主題をベラベラしゃべりすぎてる点[※1]。もともとメッセージ色の強い原作をメッセージ丸出しのまま物語にしてしまったところに、脚本の弱さが表れている気がする。中にはせっかくいいことも言ってるのに、他の凡庸なセリフに埋もれてしまって目立たない。演説やめれ。
あれもこれもと欲張るからややこしくなるんだ。この範囲(原作第3巻)に絞ってひとつの作品を作るというなら、クライマックスで強調されてる「(「生」ではなく「命」に執着する)亡者の醜さ」[※2]を一番のメッセージにできるはずだから、それに絞っていた方がメッセージがまとまったのでなかろうか。そうではない劇中で描かれた問題提起(「世界の均衡が崩れている」とかいうやつ)なんて、観客はみんな既にそういう問題のあるこの世界の中に生きていて、今さら言われるまでもないんだうんたらかんたら
などと、素人は好き勝手なことを言う。(ごめんなさい)
* * *
そして、衝撃のラスト。
周囲で聞くように、シナリオ上唐突すぎるところが違和感の根本ではあるのだけれど、個人的には単純に、そういう「落ち」に逃げたことが不満だ。「大っ嫌いだ!」とまで言わせた問題を、結局、この作品は解決しなかった(投げ出した)。巷に伝え聞く原作者サイドの反応はさておき、むしろ、まだまだ原作を捨てきれなかったのではないか。特に、過去の話のあたり。
* * *
さて、話題の宮崎吾朗監督。彼が監督という役に就いたことについてはあれこれ議論されているけれど、こういうところで言われていた[※3]ように、息子という立場であったからこそ、宮崎駿監督の跡を継ぐことができたんだというのは正しいのだろう。これは、映画作りの技術継承どうこうという問題ではなく、「株式会社スタジオジブリ」存続の問題なのだ。
よって、別監督の作品に「宮崎駿」を求めて、そして期待と違うと言って扱き下ろす批評はナンセンスであるが、ジブリは「宮崎駿」の再生産のために後継者を立ててこの作品に臨んだという背景を考えれば、そういう議論が出てきたことがジブリにとっての成功だ。(よく分からないけどたぶん言いたいことは書けているハズ。)
それでもやっぱり観客は、これまでの流れを汲んだ「ジブリ映画」として観ちゃうんだよね。そして、そう観ると、うーん、これはひどい。ということになるのだけどそんな議論はナンセンスだというのは上述のとおり。
ただ、演出術というか、観客に愉しんでもらう映画を創るという意味で、よほどシリアスかつよほど自信のあるシナリオでない限り、クスッと笑えるような癒やしのようなシーンはどんな映画であっても必要だと思うんだ。思うんです。駿監督がそういったところが上手なのは、キャラクター設定の緻密さ(彼らは実に活き活きしている)と、対象としている少年少女の心をつかむ主人公の立ち振る舞い(ここまでが主語)を意図的に作り出せるところにあるのではなかろうか。まぁ、商業作品なんだからそんなの当たり前じゃんと言ってしまえばそれまでだけど。
※1 子ども向けだと割り切ればそれでいいのかもしれないけど、そう考えるとこんどは言葉や言い回しが難しすぎる。ターゲット層が不明確。
※2 もっとも個人的には、そういう「執念」から来るエネルギーも、生きていくのに大切なものなんじゃなかろうかと思ったりもする。そして、自分自身にそれが不足していることがコンプレックスでもある。
※3 注:過去形。ここで根拠としている『「ゲド戦記」についての暴言』(『岡田斗司夫の暴論暴言!』より)からの引用部は既に削除されています。要旨は「宮崎駿を理想とするアニメーターはその本人からぼろくそに否定されることに耐え切れずジブリを去っていったが、幼少の頃より否定され続けてきた吾朗監督は、そうしたプレッシャーを受け流す術を持っていた」という話。鈴木プロデューサーの本音(なのか、文章を読む人に対する狙った作文なのかは知らない)も垣間見える。